枝廣淳子さんのメールから
Enviro-News from Junko Edahiro
No. 2625 (2018.04.19)
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東日本大震災から7年以上がたちました。久しぶりになりますが、
きを続けていらっしゃる千葉直美さんが届けてくださった「
セージ」をお伝えします。月日が経っても、
時々思い出す時間をとりたいと思います。
~~~~~~~~~~~~~ここから引用~~~~~~~~~~~
5)コミュニティカフェの女性達 8名 60代~80代
2017年3月16日
*あるご夫婦が2014年から自宅を開放し、
ミュニティカフェにて8名の女性達からお話しを聞きました。
・家族を亡くした人に比べれば、自分はまだ家があるから、
だけれど、なんとなく震災を忘れていくような気がします。
くもくと坂を上ったり下がったり歩きまわり、
ます。30キロの米を持ったし。6年がたって、
と実感しています。
・テレビの震災関連の番組を見たいけれど、見れない。3.
いがなかったけれど、今はこうして近所づきあいをしていて、
程よいつきあいがいいです。
れません。昔は、この辺は腰までの田んぼがあり、
ありましたね。
・情報のあるなしが決めてです。
りがたかったです。病人や高齢者を、
した。
区によっては、物資がたくさんあって、地域の差を感じました。
す。地区長には、見回りをよくしてほしい。
・3.11当時、支援の品物で貰って困ったものは、
い靴、かびくさい服、ぼろぼろのもので、
ありました。人にあげる時は自分が入らないものはあげちゃだめ。
ても迷惑なこともあるので相手の立場も考えないと。
も助けられました。出会いの不思議。
・年寄りは知恵があるので大切にしてほしい。
です。高齢者は若い人からの声がけ、
寄りと子供がよくお互いになじんで顔みしりだといいです。
6)F.T 80代 (美容院経営) 2017年4月23日、4月26日
3.11当時、店にはお客様が一人いました。市役所の広報車が、
と回っていました。お客様は「大丈夫」と言いますが、「
言って無理やり、
りました。
タオルと靴下だけをかついで、
「もう少しだ」と声をかけながら。神社で「神様、助けて!」
いました。このお客様はいつもは来ない日なのに、
不思議でした。山の上の小学校で、知り合いのタクシーに、
せました。
小学校で、近所の豆腐屋さんから豆腐の支給がありました。2晩、
ました。着のみ着のままで寒かったです。
に行きました。仙台も電気がなく大変でした。
しばらくして石巻に戻り、姉が5か月同居しました。
助けられ、助け合いにも感謝です。一か月後には、
というので開けました。みんな髪を洗ってほしかったのです。
の話を聞いてたくさん泣いてばかりいました。例えば、
波はここまで来ないからと逃げなかった両親を亡くした女性とか。
自分が美容師になったのは母の勧めです。
た父と、母は結婚し、女が5人、
は60歳で亡くなり母は50歳で亡くなりました。
ありがとう、
ます。今は息子と二人暮らし。3.11後、
が仕事を辞めてきました。
仕事が自分の支えです。客商売が好きです。
子供のころ父が魚市場に務めていて、
売ったことがあります。学校を出てから、
石巻で別の店で世話になりました。自分の店を持って50年です。
3.11後、美容室をやめようとは思いませんでした。お客様が、
困ると言うのですから。いい客ばかりです。3.11後、
ようになりました。
私は生かされたと思います。そして今は、
てこそ自分が支えられ、一人では何もできず、
関係が大切ですから、優しくし助けたい気持ちがあります。
は一生終わりません。いつでも目を養っていたいです。
20年前に夫が死去。
7)松並公園での立ち話 70代 2017年5月20日
この公園には、あっちにもこっちにも桜やヤナギがありましたが、
しまいました。子供達をよく遊ばせていた公園。今も、
市内には子供の遊び場が少ないので、
ここは凄く風が強いので、樹木が育ちにくいけれど、
は残った桜が咲くのが楽しみ。
3.11後、仙台の息子の所に身を寄せました。
たけれど、ここから遠かったし、
になりにくかったです。一線を引いた関係で、
度まで親しくなるけれど、仮設を出ればそれで終わり。
たです。やっと元の場所に家を再建して戻って来れました。
いたので、その時は支援物資はもらえませんでした。
仮設では、衣類をもらって助かりました。
りました。おいしいコーヒ-を入れてもらって、
めるようになり、コーヒーが好きになりました。
茶道のお抹茶をたててもらって味わったり、
もらったのがよかったです。ボランティアには感謝。
今は、もう物はいらない。ここは年寄りが多い地区なので、
つおしゃべりするのが楽しみです。でも集会所は遠い。
きていなくて町内会もあまり活発じゃありません。
く、女性の会長、副会長が頑張っています。
前は公園の草むしりも、
ないし年寄りばかり。本当に風が強いの、ここは。(
園が早く元にもどって、
咲くのが楽しみ(何度も繰り返す)。70代以上の人は、
れませんね。
3.11では、歩道橋や高い所に逃げた人が助かりました。
くさんの人が車ごと流されましたが、
8)C.U (割烹おかみ) 70代 2017年6月7日
1914年創業の割烹で、103年になります。
とにかく、あの日は、地震の後すぐに山へ逃げました。
地震の時は津波がくると幼いころから教えられていたのです。
店の暖簾をおろしてはだめだと、
に店をやめようとはまったく思いませんでした。
ぐに東京の工場に電話し、釜飯を作る機械を特注しました。
です。
だろうから、親戚の安否確認よりも釜飯の機械を注文しました。
家も仕事も、写真もすべて失くした人達が、
出したと聞きました。続けてくださいと言われました。
とって、大切な思い出はこの店での食事、特に釜飯だったのです。
お客様は親から子、
と一緒に来ていた人が、次は孫と一緒に来ていました。
出が支えだったのです。使っているお米は、
ですよ。
この店の再建が復興のシンボルになるような、
そんな存在になりたかったです。自分で立ち上がらなければ、
助けてくれると思ってはいけません。座って「助けて」
けてくれません。まず自分で立ち上がり、努力すること、
けて支援してくれます。
小さな復興と小さな希望が、大きな復興と大きな希望へ、
9)R.P 40代 (中華料理店経営) 2017年6月7日
3.11の前に、飲食店をやったことはなかったけれど、
いた時、
思い切って、中華のお店を開きました。夫が料理して、
です。
10)S・S 他3名 (60代から70代) 2017年6月24日
*この4人は近所に住んでいますが、3.
でした。3.11後にお互いの家でお茶を飲む間柄になりました。
A:大きな地震があったら、とにかく逃げること。
てはだめ。私はサイレンは聞こえました。
私は無我夢中で何も持たずに逃げました。
はだめ。車はすぐに渋滞になって、
す。
B:津波が来るとは思いませんでした。
何も落ちませんでした。
誰かと喧嘩しても時間がたつと気持ちがほぐれます。
ちを持って、負けないことです。
挨拶をし続けると、いつか返事が返ってきます。
父が32歳で戦死して、私は4歳で母子家庭となりました。
がいました。貧しくて絵の具が買えず、図画の授業がある日は、
て早退しました。同級生が、家まで一緒に歩いてくれたんですが、
た。嘘がばれるから。下着もなくて、
目立たないようにしてくれました。
暗く考えず、図太く前向きに生きています。
11の夜は星がきれいでした。空の、ある一面は星、
た。
C:映画かマンガのように、
根の上に二人の男性が乗って、流されていきました。
くの老人は、車の中でシートベルトのまま亡くなっていました。
勢いが強く、引っ張られ歩けませんでした。
自宅のアパートの二階に、
とにかく助けなくちゃと思いました。
重ねて天井まで高くしました。これ以上、水がきたら、
と思いました。雪が降ってきました。孫が学校から帰ってきて、
たのでよかったです。別の子も学校から帰宅したが、
C:ゴーという津波の音を覚えています。
水がなく、流れてきた白菜をかじって水分をとりました。
D:いろんな知識が大切。
いる人を助けることです。どこで被災するかわかりません。
無心で決断します。私はでしゃばりでお人よしなんです。
い、進んでやりたいという気持ちがありました。
れていました。誰かがしなくちゃと思って避難所で動きました。
しい。避難所でもいじめがありました。
常日頃から近所同士の、声がけやお茶飲みが大切。
場で相手に強いことは言わないようにしています。
の年の10月10日までいました。
所では、その人の本性がばれますね。
親戚の家に避難した人がいますが、
ほとんどの人が、途中で出てきます。世の中には、
話し合いをすると気持が和らぎます。
てしゃべれる友達が大切です。家にこもっていないで、
自分の方から「生きている」と言う方がいいですよ。
買ってくれと言わない、がまん強い子供時代を過ごしました。
~~~~~~~~~~~~~引用ここまで~~~~~~~~~~~
日本では、1924年の関東大震災以来、
15回起こっています。
被災された方々の体験からの教訓をしっかり学んで生かしていくこ
被災された方々のことを忘れないこと。
大事なことは忘れずにいたいと自分に言い聞かせています。