いわたけんたろうは、じゅうようだ

ふなせしゅんすけメールは、かたる。
━━━□ 2月  一考察 □━━━

――― 【厚生労働省発表】

インフルエンザ疾患発生 激減!

あなたの周りにコロナ疾患発生者は居るのか?
オカシイだろ!

コロナの死者は周りに居ないし、かかった人も居ない!
毎年インフルエンザにかかった人は居たでしょ!
オカシイと思わない方がオカシイ!!

厚生労働省で、毎年発表されているインフルエンザ罹患数・・
今年は何人か知ってますか?

国内では、インフルエンザの流行は、例年11月下旬から12月にかけて始まり、
翌年の1月から3月に患者数が増加、4月から5月にかけて減少していく。

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令和2年 12月4日 発表
厚生労働省健康局結核感染症
インフルエンザ様疾患発生報告(第13報)
http://command-ex.com/L3629/g4531/35341

本調査は、保育所、幼稚園、小学校、中学校、高等学校において
休校、学年閉鎖、学級閉鎖があった場合に、その施設数を計上するとともに、
当該措置を取る直前の学校、学年、学級における在籍者数、患者数、欠席者数を計上するものである。

 今週 令和2.11.23~令和2.11.29
 患者数    0人
 昨年同期 15,534人
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ようするに、昨年11/23~11/29 の一週間で、
保育所、幼稚園、小学校、中学校、高等学校において、患者数がゼロ。
前の年の同じ週は、患者数が15,534人居たということ。

どこへ行ったんだー、インフルエンザ患者15,534人は!
インフルエンザが、コロナにされているに決まってるでしょ。

 ★コロナは実在しない★
 小学生でも解かるでしょ!


「コロナは実在するのか」…感染症の第一人者が語る「病の存在論

新型コロナウイルスの猛威は衰えを知らず、第2波、第3波の到来も危惧される状況が続く。
この時勢、パンデミック客船「ダイヤモンド・プリンセス」の実態を告発した、
神戸大学医学部附属病院感染症内科・岩田健太郎教授が提言する「病の存在」は、
まさに今議論されるべき事柄と言えるだろう。

【第1回】
英国コロナ奇策「積極的な集団感染」が“科学的”だったワケ

■英国は初動コロナ対応に失敗も、科学的であり続けた

英国がCOVID19対策で、他国と異なる対応を取ると表明したとき、世界は驚いた。
国民の多くにあえて感染を許容させ、集団免疫をつけさせようというのだ。かなりの「奇手」と思った。

ところが、事態は二転三転する。
この感染許容策に多くの専門家が批判を寄せた。
議論が繰り返され、結局、英国は他国同様、保守的で「普通の」感染対策を行うことを表明したのである。
完全な方針転換であった。

二転三転する議論。
日本であればこれを「失敗」と捉えるむきもあるだろう。しかし、ぼくはそうは思わない。
むしろ、英国における「科学の健全さ」を証明したエピソードではないかと思う。

科学は失敗する。新しい問題に取り組むときは、特にそうだ。科学は無謬(むびゆう)ではない。

 無謬(むびゆう)とは・・
 理論や判断にまちがいがないこと。

研究活動とは、既存の世界観の外側に出ることを希求し、既知の概念を破壊し、未知の領域に新たな概念を
創り出さんと望むことだ。その場合、失敗は必然的な結末だ。少なくとも、一定の確率でそれは起きる。
それが起きないとすれば、それは既知の概念から一歩も外に出ていないのである。
すなわち、科学的営為を行っていないのである。

だから、失敗するのは科学的失敗ではない。科学的失敗は、失敗そのものによって起きるのではない。
失敗は認知され、評価され、吟味され、改善の糧とされ、そして未来の成功の燃料として活用されれば
それでいいのだ。「失敗」と「科学的失敗」は意味が違う。
「科学的失敗」とは、失敗の認知に失敗し、評価に失敗し、吟味に失敗し、改善に失敗し、未来の成功に
資することないままに終わるような失敗を言う。これこそ本質的な失敗である。

英国は失敗した。
初手の出し方において失敗した。しかし、失敗の認知には失敗しなかった。
よって、科学的であり続けるという点においては一貫性を保っていた。「朝令暮改」が繰り返されるのは、
科学的な一貫性の証左なのである。


■「パンデミック客船」の杜撰(ずさん)な感染対策

クルーズ船、ダイヤモンド・プリンセス号でCOVID19感染のアウトブレイクが疑われたとき、決断は困難であった。
まず、乗客・乗員を下船させるか、船に留めるかの難しい局面があった。
下船させれば日本国土での感染拡大のリスクがあり、船に留めれば船の中での感染拡大のリスクがあった。
ジレンマである。どちらの策がベターな策か、クルーズ船は感染症アウトブレイクをしばしば起こしており、
そのリスクは専門家に認識はされていたが、どう対応するのがベストな対応かについては学術的な知見に乏しい
決断は困難であった。

が、下船させないと決めたのであれば、そこで科学的プリンシプルを発動させるべきであった。
「船内の二次感染は絶対に起こさない」である。
14日の検疫期間は「14日の間、二次感染が起きていない」ことが前提で設定された14日間である。
もし、途中で二次感染が起きてしまえば、この14という数字は意味を失い、隔離期間の延長を強いられる。
それは、乗客・乗員に対する過大なストレス要因だ。
よって、船から下船させないと決断した時点で、関係諸氏は覚悟を決める必要があった。
断固として二次感染は起こしてはならない、という。

しかし現実はグダグダであった。
乗員は船の中で仕事を継続せねばならぬ、という言い訳で、彼らは自由に船内を歩き続けた。
彼らこそが二次感染の原因となっていたことが感染症研究所の報告で明らかになっている。

船内でPCR検査を行うと相当数の乗客・乗員がコロナウイルス感染を起こしていることが明らかになった。
これが検疫前の感染なのか、検疫後の二次感染なのか、判断する必要があった。
前者であれば、多数の感染がすでに起きていることを意味しており、クルーズ船に大量の人間を留めおくことが
危険であることは察知できた(死亡リスクの高い高齢者が多いこともポイントだった ! )。
よって、方針転換、下船をすすめることが必要だった。

が、できなかった。
日本政府の歴史的弱点はプランAを作ってしまうと、そのプランにしがみつき、
その誤謬を認めてプランBに方針転換ができない点にある。
古くはノモンハンの戦闘やインパール作戦の失敗など、同じ構造で失敗している。
「失敗の構造」だ。逆に、検疫前の感染がそれほどでもないと仮定すると、PCRが次々と陽性になるのは
「二次感染が起きている」と判断せざるを得ない。
感染管理の失敗である。ぼくが観察したように、クルーズ船内は安全であるべきグリーンゾーンと
安全ではないと判断すべきレッドゾーンが混交しており、「ぐちゃぐちゃ」な状態になっていた。

前述のように「二次感染が起きない」前提を貫くなら、
このようないい加減な体制こそ全否定しなければならなかったのだが、
「異論は認めない」「皆の団結が最優先」という戦時を想起させる全体主義エートスの中では、
異論を唱えることすら悪であった。国際医療福祉大学の和田耕治教授とクルーズ船内で議論を交わしたが、
彼もクルーズ内の感染対策に不備が多いことに気づいていた。
船内のクルーから得た情報でも感染対策が穴だらけであることが指摘されていた。
が、そういう懸念は全て無視された。プランAが発動された以上、そのプランA は無謬でなくてはならないからだ。

国立国際医療研究センターの専門家は二次感染が起きていることを2月10日の時点で警告していた。
が、「素人」の厚労省は専門家の意見を無視したのだ。
プランAは無謬でなければならなかったのだから。専門家の意見を素人が無視する。プランAの無謬性の保持のために。


■「コロナで一致団結」という同調圧力

英国を思い出してほしい。最初の方針には多数の異論が出て、批判が出た。
日本であれば

「みんな頑張ってるのに、ここは一致団結なのに、批判とかしてる場合じゃないだろ」

同調圧力がかかったであろう。
そして英国は間違え続け、国民は多大な被害を受けたかもしれない。
幸いにして英国は同調圧力の国ではなく、批判、議論は「前提」として受け入れられていた。
異論が発生することを「現場を混乱させる」という理由で否定しなかった。
そもそも異論が現場を混乱させるなどということは、プロの世界ではあってはならないのだ。

哲学者の鷲田清一先生は、コミュニケーションとは対話が終わったときに自分が変わる覚悟を持っている、
そういう覚悟のもとで行われるもののことである、と述べている。
日本におけるコミュニケーションの様相はそうではない。
同調圧力に抗うのは「コミュ障」である。異論を唱えるのは「コミュ障」である。
深夜に行われる討論番組で、参加者が番組の終わりに「おれ、意見を変えたよ」ということは起きない。
彼らは議論をしているのではない。演説を繰り返しているだけなのである。だから、自説は一ミリも変わらない。
本当に「コミュ障」なのはこうした同調圧力の奴隷なのではなかろうか。

弁証法とは時代がかった言葉だが対話という意味である。
対話を通して自分が変わる覚悟ができて、初めて対話である。
そこでアウフヘーベンが起き、議論は前進する。

 アウフヘーベンとは・・
 矛盾するものを更に高い段階で統一し解決すること。

しかし、こうした古びたヘーゲルマルクスの議論も日本では「形式」としてしか伝承されなかった。
異論を唱えることそれ自体が「コミュニケーション障害」とみなされるのは、そのためである。

感染症の正体、微生物の正体。
そうした哲学的議論は観念的議論ではなく、我々の今、ここの実生活に密着するリアルな議論である。
が、日本社会はそもそも議論を許さない。
あるのは「あちら」の側につくか、「こちら」の側につくかの党派的、属人的な足の引っ張り合いだけだ。
「一貫性」はその属人性における一貫に過ぎず、要するに政府や厚労省の肩を持ちつづけるか、けなしつづけるか、
という低いレベルでの一貫性でしかない。朝まで討論しても意見が変わらないのは当然だ。

本連載がそういう足の引っ張り合いを「バカバカしい」と悟る一助となれば、
それだけで本連載が存在した価値はあると思っている。

感染症は実在しない」という命題に、「ばっかじゃない」と苦笑するか、

「なにそれ ? 知りたい。教えて教えて」と自分が変わる奇貨(きか)とするかは、読者の「変わる覚悟」次第である。

 奇貨(きか)とは・・
 利用すれば思いがけない利益が得られる品・機会。

岩田 健太郎
神戸大学医学研究科感染症内科 教授

出典:
「コロナは実在するのか」…感染症の第一人者が語る「病の存在論
http://command-ex.com/L3629/g4531/45341